郷土英傑行列「家康」役の私(左)と
「北政所(おね)」役の真咲よう子さん
健康は一生の宝
大阪との出店すみ分け外であった東京で、430平方メートルの土地を購入。
S銀行から建物を含む60億の融資の了解を得ていたが、別の銀行から「建物だけでも当行で」と日参されたため、S銀行には土地だけをお願いした。
ところが、運悪く「貸し渋り」が始まり、約束は一方的に不履行となり、土地を売却し大損を出した。
その前の旭川と熊本ではうまくもうかったが、長崎・鹿児島の土地なども売却して損を出し、情愛の残る材木や石材も全て処分した。
そんな身を切り、血を流す努力を続けた結果、どうにか生き残ることができた。
しかし、育った幹部社員の何人かは、これを機に退社してしまった。今思い返しても心痛む大変な時期だった。
その後、200億円以上あった負債を毎年返済し続け、今では8割程度の返済を終えることが出来た。
ここで「名古屋まつり」についても触れたい。
1995(平成7)年までは、秀吉のお供に淀君が出ていた。
秀吉の側室で大阪城を焼き、豊臣の地を断絶させた女性だ。
秀吉の正妻「北政所」は、清洲出身で多くの武将たちを味方に付かせ、これにより、戦のない世が実現したのだ。
私は「この北政所を出さなければ、世界に笑われる」と、訴えた。
異議を唱える人はなく、北政所の出演が決まった。初代演者は、私が推薦した中区正木出身の演歌歌手、真咲よう子さんに決まった。
2年目は女優の中野良子さん。3年目はスケートの伊藤みどりさんの予定だったが、当日雨で残念なことに中止となってしまった。
97(平成9)年には、徳川発祥の地・豊田市十塚町に、家康の功績を称え、本格的城郭風の「豊田城店」を築いた。
4年前に発見された古文書によれば、私の祖先は伊勢・北畠の家臣で侍大将であった。当時、信長の南攻を阻止し、次男・信雄を婿養子として迎えて和解し、伊勢神宮なども守った。
長久手の戦いの後、家康に請われ家臣となった日置大膳の子孫として、実家の敷地内にある屋敷跡の修復も模索中だ。
この連載を終えるにあたり、今後とも不屈の精神で、かには無論のこと油も圧搾油のみを使用するなど正しい商売に徹するとともに、一生の宝である健康で豊かに生きる方法について広く伝えていきたいと考えている。
文:社長 日置
2018/02/28
海底洞窟を模した「栄中央店」地下
バブル経済の崩壊
1991・92(平成3・4)年ごろにバブル経済の崩壊があった。
値上がってきた土地を90(平成2)年に買い、高騰した工事費を掛け、92年11月に開店した「栄中央店」も、これにより大きな影響を受けた。
ここは、ケヤキ材や赤松の大梁(はり)を使い、1個500万円もする京都の加茂川石をメインの庭石に据えるなど、豪華な店であった。
また、地下の「かにの穴・洞窟座敷」は私の絵心を具現化した繊細さもあり、どこの業者も受けてもらえなかった。
ならばと、私と社員で造り上げた作品でもある。
その店造りを取材した、中京テレビの「スーパーテレビ」でも、「日本一のかに料理店」として全国放送の栄に浴し、一時的にせよ大繁盛していた。
ところが、バブル崩壊後は、各種の接待や接待費の課税もあり、他の高級料理店と同様に、長い冬の時代へと突入していった。
バブル終焉(しゅうえん)後に、金山駅前に売りに出た470平方メートルの好立地を購入し、94(平成6)年には「金山店」を開店させた。7階建ての豪華な店である。
2階から7階までは広くベランダを取り、美しい石とつくばいなどを配した坪庭風に仕上げた。
6階には小川を流し、水車のある田舎を再現した。5階はカラオケルームを11部屋作った。お食事後の利用でも人気を得ている。
小泉内閣が誕生した2002(平成14)年のこと。
私はAビールの重臣で内閣経済戦略会議議長に決まった故H氏とお会いした。
もともと瓶生ビール造りのアドバイザーとして、H氏との親交があったが、その時のアドバイスは日本経済復活の最良のアイディアであった。ところが不幸にもH氏は、脳内出血で倒れられ、ピンチヒッターが立てられることになった。
小泉総理の経済アドバイザーとなったのはT氏である。
彼の主導で、「貸し渋り」や「貸しはがし」が横行。「10年内で今の負債を返済できなければ、企業倒産もやむなし」という極めて厳しい判断によるものだった。
これにより、多くの会社が倒産に追いやられた。
当社も、銀行が送り込んできた行員と支店長が組んだ「事件」が露見したため、丸坊主となって銀行に抗議に乗り込んだこともあった。
文:社長 日置
2018/02/27
1987年当時の託児所
社員福利に注力
福岡、札幌への出店では、就職先として学校へのPRを行ったことで、予想以上の新卒男女を採用することができた。
そのころ、東南アジア旅行に参加した。社員には勉強奨励の意味もあり、土産は万年筆にした。まず虫メガネを購入し、ペン先の良し悪しを確認した。
同じ土産でも、できる限り良いものを選びたいという思いからだ。
また、女子社員はハワイ旅行に連れて行った。ワイキキで泳いだり、ヘリコプターに乗ったりもした。ケーキの食べ放題も大好評だった。
京都店にいた35人ほどの三重出身の真面目な若い社員を、住吉店、錦店のころに「清州越し」のように名古屋に来させたこともあった。
その人たちの多くが社内結婚し、子持ちも随分と増えた。
そのため、1981年(昭和56)年、入手した名古屋・栄の寮の一部を改修し「社内託児所」をつくり、接客のベテランであるお母さんたちにも働いてもらうことにした。
多い時には、子供の数は25人を超えていた。施設としては、他に先駆けての取り組みだったので、大いに喜ばれた。
それと、中卒後に製材所で製材や運搬の仕事をした時には、まさに危機一髪の事態にいくつも遭遇した。
製材機のカスガイが外れ、1トンもある材木を、逃げ場のないところで人の上に落してしまった。ところが、運よくその人は身を躱し、事なきを得た。
さらに、暗闇の朝5時前、トラックに木を積んで高速道路を走行中、クラッチの故障により、走行車線内で車が立ち往生してしまった。
ところが運よく、トラックの数百メートル後に、道路監視車が走っていたため、走行車線から外へ引っ張り出してくれた。
こうした奇跡ともいえるような恩恵により、助けられたことは数知れない。
また、名古屋の店のほとんどは、隣の土地を譲ってもらい大きくなった。
81年(昭和56)年、隣を譲ってもらい515平方メートルになった駅前店は、工事中に近隣の人から「ここは商売の難しいところだから、あまりお金を掛けない方がよい」と忠告された。
しかし、4、5年前までは道頓堀の店を抜き、グループの中で一番の売り上げを誇っていた。
文:社長 日置
2018/02/26
苫小牧の海水循環式大規模いけす
札幌店の開店
札幌店は1985(昭和60)年3月に無事開店した。
かにの売店を入口の一角に設け、そこに海水のいけすを造り、タラバかにや毛かにを入れた。
北海道在住の方々も、生きたままのかにをあまり見ることがないのか、朝から夜まで常に20~30人の人だかりが連日続き、絶好のPRにもなった。
飛騨からは25人ほどの大工さんに来てもらった。
雪のちらつく深夜、7階建ての各階に、窓から太い柱や松の梁(はり)などを搬入してもらい、重厚・豪華な美しい店造りに尽力してもらった。
また、この土地の縁をいただいたS銀行と拓銀(当時)の2行で、総額15億円の融資を受けられたことにも感謝している。
福岡の工事から始まり、1年少々で大型店を二つ完成させたが、毎日毎日、深夜まで図面を描き、昼間は材木や庭石などの選別や現場の確認、指示など、一心不乱に店造りに没頭した。
札幌店の出店に合わせ、苫小牧に生簀を備えた大型発送基地を造りたいと考えた。千歳空港から車で30分ほどの便の良さ、毛かに・ホッキ貝などが獲れるという利点があったからだ。
運よく苫小牧魚市場の近くに、最適な土地が見つかり、そこに海水を引き込み、毛かにタラバかに、ズワイかに、ホッキ貝などを備蓄する基地を造った。
山陰の松葉かにや北陸の越前かには、11月~翌年3月末までが漁期だが、北海道では毛かには年中獲れ、ズワイかには4月ごろから獲れる。
幸い浜仕入れの入札権を持っており、元値で手に入れたかにやその他の魚介類は、鮮度の良い状態でここから全国の各店舗に空輸配送することができるわけだ。
北海道からのかに仕入れは昭和40年ごろからで、そのころは東京から千歳へ飛び、札幌駅で夜10時ごろの夜行列車に乗り、稚内や紋別へと向かう。早朝に到着するので長旅の風情があった。
うにを求めて利尻や礼文、羅臼、えびを求めて、野付半島へ向かった。甘えびは羽幌などへと出向いた。
遠くは米国やアラスカ、韓国のヨンドクやソクチョー、沖縄と行く先々でさまざまなことを学んだ。
文:社長 日置
2018/02/24
「札幌駅前本店の外観」
札幌進出
話は少々回り道したが、福岡の大型店の工事中に、大阪の今津芳雄常務から電話が入った。
「札幌にも出店を予定していたが、裁判の相手に先を越されてしまった。大阪には武将がいない。日置君が出てくれないか」とのこと。
もともと札幌には大阪が出るのだろうと思っていたので、躊躇していた私にとって、この話はむしろ朗報であった。
ススキノには既に18年ほど前から、かに料理店があった(私はさらにこの23年前に、日本で初めて、かに料理を創作していた)ものの、「札幌でも、本家の心意気を示してきますよ」とすぐに快諾した。
札幌の出店用地は当社が「本家」であることを示すためにも、どうしても好立地が必要だった。
札幌駅前の東急デパート南向かいの角地に、1890平方メートルほどの出モノがあり、入札したところ僅差で購入が決まった。
後日、前所有者のテナント処理を担当した建築業者、T社から、「この土地は雑誌社のボス、その他が関わっており、大手のわが社でないと話が進まないので、工事を任せてほしい」との話があった。
嫌な予感がしたので、念のため胸ポケットにレコーダーを忍ばせ録音しておいた。
その後、7階建てビルの軀体だけの見積もりを取ったところ、5億円という高価格の提示があった。
それらの経緯を知人に話したところ、その雑誌社のS社長とも親交があるとのことで、真偽を確かめるため、早速訪問した。
生真面目で実直そうな社長は、「私はそのことを一切知らないし、むしろダシに使われた!」と立腹その場でT社に苦言の電話をかけた。
自体は大きく動いた。
翌日、S社長から私に電話が入った。
「先ほどT社が来て、『そんなことを言った覚えはなく、日置さんの勘違いだろう』と言っている。どちらが本当なのか?」と。
私はすぐさま札幌に飛び、ポケットレコーダーの記録をS社長に聞かせた。真実がすべて明るみにさらされた瞬間だ。
その後、他の業者に見積もりを依頼したところ、4億円で工事は収まるとのこと。
余計な1億円の出費を抑えることができた。
文:社長 日置
2018/02/23
四国に出向き、庭石を調達
自称・特級建築士
福岡市で新しい出店用地を探していたところ、天神の中心街から南に1.5キロメートルに位置する「那の川」の角地に、手頃な良い土地が見つかった。
660平方メートル弱とあまり広くはないが、高級住宅街の入口的な場所で、建物を5階建て程度にすれば目立ちそうな有望地だった。
天神の店を売却する半分の金額(13億円)程度で開店できれば、と考え手を打った。
1階には調理場を設け、魚やイカ、かにのいけすとカウンター席を作った。2階から5階の各階には、外に少し広めのベランダを作り、そこに庭を配し、全室から銘石庭園が楽しめるようにした。
庭園は全部で36カ所になった。
私は「自称・"特級建築士"」と他人にも話をし、自分でもそう思っている。しかしその店の設計や工事は日頃からお世話になっている人の勧めを採り入れ2階と3階だけは地元・福岡の工務店に委ねた。
ところが木材の質やフロアの感覚が、私としてはどうもしっくりこない。
さらにケヤキの柱や赤松の梁(はり)、上質杉などの無垢材を生かし重厚に仕上げた「日置流」の費用と、さほど大差のないこともわかった。
改めて、自分の店造りの方法に、自信と確信を深める結果となった。
それは世界中で私しかできないやり方でもある。自ら設計を行い、材木は競り市で元値で競り落とす。その原木を製材し、自然乾燥させ、その材料を使って飛騨の匠に決めた坪単価で店造りをしてもらう。
庭や坪庭は、チェーン全店で250カ所ほどあるが、私の構想と感覚で画いた図面を基に庭を造り上げてもらう。
銘石の調達は、北海道、天竜、四国、九州などの産地に出かけ、選んだ庭石を元値で買い付けてくる。
植木は、稲沢の矢合の競り市で買い付ける。
専門の庭師に石運びや立て起こしなどは手伝ってもらうが、社員にも工事に加わってもらい一緒に造り上げる。
石にも一つ一つ顔があり、芸があり、天場がある。その良さを最大限、美的に生かす、これが「日置流」なのだ。
文:社長 日置
2018/02/22
斬新な造りのかつての「福岡店」1階
「福岡店」の趣
1982(昭和57)年、名古屋まつり三英傑の「徳川家康」役に選ばれた。2年前、寺島営業部長が申し込み、合格はしていたのだが、その時は、「家康ゆかりの場所にまだ出店していない」という理由で断ってしまった。
それだけに、今回は胸を張ってお引き受けした。伊勢の郷里から母も見物に来てくれ、家族とともに喜んでくれた。
2年後の9月には、福岡の店を開店させた。
魚の美味しいところだけに、大きないけすを造り、船を浮かべ、その中で調理するという斬新なアイディアを形にした。
全長6メートルの船を造るのに、船大工の了解はもらったものの、翌日には「それだけ長い板は福岡にはない」との電話が入った。
それならば、と当社の名古屋工場から材料を送り、事なきを得たという一幕があった。
また、店内は1000平方メートルの広さがあった。
そこに使うケヤキの柱材や赤松の大梁(はり)は、いったん高山に送り、私の図面に合わせ加工してもらい、その後、福岡の現場に送った。
2階や3階に材料を揚げる時は、真夜中にクレーンで、窓から入れた。
同様に、五ツ木村や椎葉・球磨川の雲竜石、四国の青石など庭石の搬入もクレーンが使われた。
設計や各材料の手配などを手伝ってくれる社員はいても、すべてに精通する者はいないため、私自身渾身の力を注ぎ、寝る間を惜しんで完成させた。
この店も順調に推移したが、2005(平成17)年3月に、福岡正方沖地震に遭遇した。
大きな揺れで近辺の店は相当の被害を受けたようだが、私どもの福岡店は、意外なほど無傷で済んだ。
店内の庭の石が動き、その下の土に施設してあった給排水がつぶされ、庭の散水などに影響が出てしまったのと、調理場内で熱い油が飛び散り、2人が軽い火傷を負う被害はあったが、なんとか翌日には営業を再開することができた。
そんな福岡店だが、場所的にあまりに繁華街に近すぎて、団体の観光バスが入れないという欠点があった。
幸い土地の値段も上昇しており、売値の半分ほどの資金で、別のところに店を持てるのであれば…と考え、土地、建物を売ることにした。
文:社長 日置
2018/02/21
岡崎城の北メートルにある「岡崎店」
八事店と岡崎店
八事店の造作には、家具職人の宮末敬一郎氏が尽力してくれた。
人柄が良く、彼を慕う当社の工事部員も育っていった。また、庭師の榊原篁之進氏は、若手ながらセンスの良い仕事をしてくれた。
されに大工は、わざわざ飛騨から来てもらいその腕を発揮してもらった。
開店前日のこと、1階の滝の流れを良くしようとハンマーとチスを持ち、自ら水の落ち口の石に向かった。
いつもやっていることだから、と高をくくっていたが、いくら力を入れて叩いても固いメノウの入った岩のため、チスが跳ね返されてしまう。
力自慢の私も、結局あきらめざるを得なかった。
お客様からは開店当日、こんなうれしい評価をいただいた。
昼過ぎに菜っ葉服を着て玄関先の土の汚れを洗っていた時のこと。
食事を済ませた中年のご婦人だったが、奥様が初老のご主人に、「美味しかったし、美しいいい店だったわ。こんな店の社長の顔が見てみたいわ…」と私の目の前でぼそりとつぶやいた。
「その社長だったらここにいますよ」と言ってしましたい気持ちを抑えつつ、苦笑しながら「ありがとうございました」と丁寧にお見送りをした。
1980(昭和55)年の夏には、岡崎店を開店させた。店内に川が流れる風情のある店だ。
1階の奥は少し上げ気味にして川の流れを作り、滝石は九州・椎葉の石が使ってある。
子どものころの貧農の思い出や、妹や弟の子守の思い出が重なる「五ツ木の子守唄」が大好きだった。
そこに好奇心も加わり、熊本の山奥・五ツ木村にも庭石を求めて、何度も足を運んだ。
当時4トンのクレーン車を(ユニック)を持っており、大阪からフェリーで海路を西へ向かい、北九州に上陸。
そこから南下して、八代に入る。途中、球磨川に沿って人吉から五ツ木村へと入り、椎葉村を経由して帰途に着く。
こんな風に、さまざまな郷愁や思い出を味わいながら良い石を選んで購入し、店に据えるのも望外の楽しみだ。
当時は近くにジャスコや松坂屋、シビコなどの有名な店もあったが、撤退が続き、岡崎店の周囲はすっかり寂しくなった。
しかし、私の祖先は徳川家康の家臣だったこともあり、たとえ自店舗だけになってもこの地域を死守したいと考えている。
文:社長 日置
2018/02/20
「八事店」1階の優雅な滝庭園
「動くかに看板」訴訟
当時は不正競争防止法という法律はまだなかった。
そのため、同じような「動くかに看板」を取り付けられても、手の打ちようがないのが現実だった。
大阪の今津芳雄営業部長(当時)が、相手側に電話で抗議したところ「名古屋では日置さんにいつもいじめられている。話があるなら事務所に来ればいい」と言われ、ついに動くかに看板の訴訟へと発展していった。
それでも相手の事を考え、和解という形で事を収めたのだ。
この事件をきっかけに、動くかに看板は、私が考え出したということが、初めて一般の人たち(特に関西の人たち)に、わかってもらえた。
また、大阪側の報道各社への対応も良くなかった。
弁護士費用や裁判費用は、大阪・名古屋が折半であるのに、大阪は5社ほどの子会社の名を連ねたため、名古屋も大阪の子会社と同等に見られたきらいがあった。
ある新聞は「大阪と名古屋の戦い」と見出しに大きく打ち出し、誤って私たちを悪者ととらえる人もいた。
少なくとも半分以上はそうだったのではないか。なんとも口惜しい思いを経験した。
大阪でかに料理を創作して、不振の店を繁盛店によみがえらせ、道頓堀の場所も探し当て、動くかに看板も考案したのは、札幌かに本家社長である私であることを、あらためて多くの方に知っておいてほしい。
さてここからは、札幌かに本家各店舗の様々なエピソードを順次紹介していきたい。
名古屋市昭和区にある「八事店」は、最も古い現有店舗である。
古刹・興正寺の境内にある山すそを掘削して店にしたらどうか、との話をもらった。
そのためには5メートルほどの擁壁が必要となるが、そこに自然に近い大きな滝を作り、2階や3階は裏山を借景にした優雅な雰囲気を醸し、建物は飛騨の匠にお願いすれば、素朴で味わいのある店になると、その話に乗った。
そんな店づくりのコンセプトやアイディアをはじめ、店舗設計、岩や材木、大工の手配など全て私が手がけることになった。
そして思いが十分に生かされた店舗が完成した。
文:社長 日置
2018/02/19
シンボルの「動くかに看板」
動くかにの看板
時は少しさかのぼる。
名古屋・栄にある3つの店が順調であったため、次は東の要所をと考えていた矢先、今池に良い土地があるとの情報が入った。
その土地が気に入った私は、大阪の今津芳雄営業部長(当時)を伴い、2度目の視察に出向いた。
すると、その斜め向かいにも、かに道楽ができると、他の人から耳を疑うような話を聞かされた。
「そんなことはあり得ない」と疑ってみたが、論より証拠と見に行ってみてあきれた。それらしき店ができつつあったのだ。
誰がやろうとしているのか、全く不明だった。
その3日ほど後、某ビール会社の仲立ちで頭を下げにきた人物がいた。
夜の商売を営んでいる人であったが、「他のところには一切出店しないので、そこだけは商売させてほしい」と懇願された。私はその言葉を信じ、そこへの出店を見合わせた。
やがて開店したその店の看板は、足をだらりと下げたかにの形をしていた。
その翌年、名古屋駅前の錦通り北側に160平方メートルほどのすし屋の売り物が出た。
早速調査に行くと、その150メートルほど先に、今池でかに料理を営業している店が、新たに出店する用地を取得しているとの噂を聞いた。
「わが社の方が立地もよく、立派な店もできるので、どちらが繁盛するか戦ってみたい」。そう考えた私に今津営業部長は、「相手も人間だ。もう一度だけこちらが引いてみてはどうか」と提案。
結局は情けをかけ不動産手数料も私が持ち、その地を譲ることにした。
その地にできる店には"かにの網元"という大阪のキャッチフレーズの看板が真似されるのでは、との予知が働き、その登録を取っておいたところ、まさに予感は的中した。
それらしき看板が付けられたので一報すると、間もなく看板は解体された。その後、今池のかに看板の足はだんだんと上がってくるようになった。
私たちが新しいアイディアを出すと、10日も経てば、それに近いモノが先方にもできているということが続いた。
極めつけは、かにの看板を造る業者を抱き込んだことである。
「お金をもらってしまったが、どうしたものか…」と業者が悩んでいるということを、私は友人から聞かされた。
文:社長 日置
2018/02/17