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中部経済新聞連載 【マイウエイ ㉖】 2018/02/03掲載

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かに道楽の「京都店」

「親孝行少年」を慕って

かに道楽京都店店長
京都進出は京極の西隣り、三条寺町の好立地に実現した。
東海道五十三次の西の起点といわれる由緒ある土地だが、なぜか誰が商売をしても半年も持たない、いわくつきの地。
でも私は、そんな噂にひるむことなく「必ず繁盛店にしてみせる…」と、店長としての強い責任感と意欲に燃え仕事に当たった。
連日深夜に実施したポスティングが功を奏し、店は日増しに忙しくなっていった。
また、春から秋まで獲れる北海道のかにをうたったPR紙のポスティングや、ホテル回りなどにも精力的に取り組み、やがて夏でも繁盛するようになっていった。
それに合わせ、人の確保がますます必要となった。当時はまだパートの制度はなかったため、男女の正社員の募集を新聞で行った。
ところが優秀な人材は一向に採用できない。窮余の策として三重の実家に依頼することになった。
親戚や知人にできる限り話をしてくれるという両親に、感謝しつつ望みを託した。
ふたを開けてみると、15~24歳くらいまで給与の9割程を常に仕送りしていた私のことを、親類・縁者はもとより郷里の人たちは"親孝行少年"として、みなしってくれていた。
その信用もあり、「達ちゃんのためなら…」とたくさんの人が協力をしてくれたのだ。その後、真面目な若い子が私の父に引率されて、昨日は1人、今日は2人と、店員や板前見習いとして次々に入社してくれたのだ。
その若い社員たちに、調理の心得や接客のマナーなどを、毎日の朝会や現場で実地指導していった。もともと「伊勢っ子正直」と言われている地域の子たちであり、誠実な働きのお陰で、忙しさがピークとなる年末年始も難なく乗り切ることができた。
京都店は山陰から直送の松葉かにの美味しさ、おもてなしの良さが受け、秋から翌3月まで繁忙期を迎える。
レジの前だけでなく、階段まで一列に並んで待っていただくのが茶飯事で、今では考えられない忙しさだった。
こんなことがあった。12月の繁忙期に用事を思いつき事務所に入ったところ分電盤が何の前兆もなく火花を散らし燃え上がったのだ。すかさず古い衣類でたたき火を消し、事なきを得たが、まさに奇跡的な幸運だった。

文:社長 日置
2018/02/03

中部経済新聞連載 【マイウエイ ㉕】 2018/02/02掲載

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学生服に身を包んだ夜学当時の私

26歳の高校生

かに道楽に再入社
自分の絵心や感性を具現化するため26歳になってから夜間高校への入学を果たした。
1962(昭和37)年のことだ。4~5倍の競争率を突破して合格したのは、大阪市立都島工業高校の機械科である。
クラスでは私が一番年長だったが、向学心に燃え機械設計の基礎を学んだ。 昼は軽金属会社で現場のことを学び、次は機械設計会社に勤務したが、いずれも基本だけを知っていれば後は自分の感性と手腕でどのようにでも応用は効く、という考えがあったからだ。
ちなみに、昼間働いた軽金属加工会社は大阪の東成区・猪飼野という地域にあったが、ここは、かの「松下幸之助翁」がかつて起業した地でもあった。
後の成功を考えれば、ここで商売の神様の運気を分けてもらった気がする。 その後、当時の父親の体調や自分の年齢なども考え、設計の基礎を学んだ私は、その年の冬に退学し、商売の基本である魚やかにの行商に従事した。
自ら出向いて商売する大変さを体得するため、小雪吹きすさぶ中でも手袋をせず、わざわざ来てくださるお客さまのありがたさを身と心に刻んでいった。
"千里の道も一歩から"の格言になぞらえ、選んだ場所は大阪「千里丘」。7年後に大阪万博の開かれた場所でもあった。
自分への試練と捉え、仕入れたものをかごに担いで売り歩いた。すると不思議と「かに」がよく売れたのだ。 「かにはこんなに人気が高いのか…」との思いを新たにした。 また、夜の時間もむだにせず短期の経理学校にも入り、複式簿記も学んだ。将来の経営に携わる時には必要だと考えてのことだった。
1963(昭和38)年、再三の勧誘もあって一度退社した「かに道楽」に再入社を果たす。「京都店」の開設に加わり店長となった。
ところが、冬の時期の繁盛ぶりとは裏腹に、春になると売上は一気に落ち込んだ。春から獲れる北海道のかにのことを、コストをかけずにPRしなければ…。
そこで考えたのが「ふくろう作戦」。 毎晩夜中から明け方まで、1千枚ものPR紙を1件1件ポスティングして歩いたのだ。
犬にほえられたり、警察官に職務質問されたり、説明すると褒められたり、と色々な体験もした。
それでも、1カ月弱続けたところ効果は徐々に現れ、その後夏でもにぎわう大繁盛店へ変貌を遂げていった。

文:社長 日置
2018/02/02

中部経済新聞連載 【マイウエイ ㉔】 2018/02/01掲載

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発展を遂げた「大阪かに道楽」(大阪道頓堀の店)

大阪名物 動く巨大看板を考案

大阪かに道楽
店は軌道に乗ったが、さらなる事業拡大のためには次の出店が必要と考え、私はすでに行動を起していた。
私が見つけてきた道頓堀西角の超一等地の空きビルの話を上司の今津芳雄営業部長にしたところ、あまり乗り気でない様子だったので、「話しに行ってもらえないなら、先日の店頭販売の話は断りますよ…」、とけしかけた。
最初は渋っていた今津営業部長も背中を押され交渉に足を運ぶようになった。
私としては、決して意地悪をしようということではなく、上司に発破をかける意味もあった。
いずれにしても、これが縁となり道頓堀の角にあった現在の「かに道楽本店」の場所が借りられることとなった。
上司の意向を、すんなりと私が承諾していたら、この話はあるいは実現しなかったかもしれない。
私の対応が大きく幸いしたと考えられるが、いずれにしても「かに道楽」が誕生するのは翌1962(昭和37)年2月のことであり、その店は繁盛し、やがて西日本一の最高立地と言われるまでになる。
城崎の金波楼(日和山観光)から出向して一年弱、「千石船」の再興と発展という使命をやり遂げたと考え、これからの自分の進む道に思いを巡らした。
日本経済は高度経済成長時代に入り、土地や物価の高騰が続いていた。
「これからの時代、大きく生きるためには自分のアイデアを具現化し、新商品の開発や特許を取得しなくては…」そんな思いから、夜間の工業高校に入り、製図の勉強をする必要があると考え「千石船」の退社を決意した。時代の変化に合わせたさまざまな選択肢を持つことも必要だと感じていた。
遅れた勉学を取り戻すため、修業も兼ね、自習の時間が取れる料亭に一時勤めた。
今津営業部長は私のところに日参し、新店の店長にと誘ってくれたが丁重に断り、自分が以前から大切に温めていた「動くかに看板」のアイデアを話した。
そのアイデアは、新開店した「かに道楽」の店頭正面に設置された横幅6メートルの巨大な動く看板として具体化し、後の大阪名物になっていった。
本格かに料理の創作と不振の「千石船」の再興しかり、かに道楽の立地獲得のきっかけ作り(7年後に買取る)しかり、動くかに看板のアイデアしかり…。
私の行ったことはいずれも大阪かに道楽の発展に大きく貢献したと自負している。

文:社長 日置
2018/02/01

中部経済新聞連載 【マイウエイ ㉓】 2018/01/31掲載

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創作した本格かに料理の数々

自身の舌を頼りに

本格かに料理を創作
やがて「かにすき」「かにの刺身」「甲羅揚げ」「かに寿司」など20種に及ぶ本格かに料理が、日本で初めて生まれた。
特に「かにすき」は、今も「札幌かに本家」の看板商品として絶大な人気を誇っている。
かにと野菜の美味しさを引き出すだし汁が決め手だが、最高のだし汁の開発は、厳選した調味食材と、精進を重ねた私の舌が生かされてされて出来上がったものだと自負している
唯一の味見の道具となる舌を狂わせないため、酒やタバコ、刺激物などを一切口にせず修行に徹したからこそ、最高レベルに到達することが出来たのだと思う。
余談だが、今でこそ「えのきだけ」は鍋料理に当たり前に使われるが、鍋の具材として使うことを最初に考えついたのは、恐らく私であろう。
また、日増しの繁盛を考え、見習いで入社させた西村憲顕(後に大活躍)にできることは任せ、私は極力店に出て来店客に積極的に声をかけ、美しい山陰海岸のスライドを見てもらうなど、創作かに料理をより美味しく召し上がっていただく心くばりを忘れなかった。
同時に進めてきた日置流の体質改善策も功を奏し、暗く沈んでいた「千石船」にも活気と明るさが漂ってきた。
店の繁盛とお客さま満足を第一義と考え、時には上司の意向に反することもした。
例えば、上司は「山陰の魚はうまい」と自慢し食材に使うことを盛んに勧めるのだが、小魚の関係で魚自体が衰弱気味であり、大阪に運ぶ間に鮮度も味も落ちている。
かにや甘エビ、かれい類はまだいいが、それ以外の魚は美味しくないと私は使わなかった。
ある時、それならば…と上司は山陰の、私は瀬戸内海のハマチをそれぞれ持ち寄り、食べ比べを行ったのだが、結果はもちろん瀬戸内海のハマチの圧勝で、上司もそれを認めざるを得なかった。
それ以降、いよいよ自分が信じるおいしい食材を使い、お客さまにアピールした。
懸命な努力は数字に表れた。着任後わずか3カ月で売り上げはなんと10倍となり、目の回るような超繁盛店に生まれ変わったのだ。
松葉かにという食材をメインとし、庶民的な価格で提供したことが当たったとは言え、極端に低迷した店がそれだけ爆発的に伸びるなど普通ではありえないことだ。
しかし、私としてはこれで満足するつもりはなかった。

文:社長 日置
2018/01/31

中部経済新聞連載 【マイウエイ ㉒】 2018/01/30掲載

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当時の「千石船」の外観

堪忍袋の緒が切れる

「千石船」の再建
山陰は晩秋になると客が減少するため、私は大阪へ帰るつもりでいた。
そうしたところ、今津芳雄営業部長が、「大阪の立て直し是非行ってもらいたい」と、私のところへ1週間ほど日参を続けてきた。
断り続けているうちに私の頭の中には、かに料理のメニューのアイディアがいくつも湧いてきた。
給与も上げるとの事だったので、8日目にはとうとう承諾してしまった。
私が入社した年、1960(昭和35)年2月に開店した大阪支店の「千石船」は、開店当初はまずまずだったが、次第に下降線をたどり、9月の月間売り上げは30万円あまり、10月に至っては23万円まで落ち込み大赤字となっていた。
翌年2月まで営業を続け、回復の兆しがなければ退却するということだった。
そして、10月末にその店に赴任した。
客が離れ、ここまで衰退した原因はどこにあるのか…。
料理といい接客といい、おろそかにしすぎていないか。外装は船型をしており確かに奇抜ではあるが、入口にサンプルウインドーもなく、開店から9か月の間に一体どんな営業施策をしてきたのか、と不可解なことが多すぎた。
極めつけは、炊事場を担当している古参賄い人の存在だった。口汚く自分勝手な言動が多く、他の社員がお客様をおろそかにし、この賄い人に気を遣っているのだ。
店の雰囲気はチリチリする一方であった。

多忙時を想定しシャリ炊きをやってもらおうと説明したところ、「そんな難しいこと、わいはようやらんで!」と悪態をついた。
この言葉にあえて私は堪忍袋の緒を切った。
「ようやらんのだったら辞めよ!お前がいるから女の子も暗いんや。貧乏神め。すぐ辞めて帰れ!」これほどきつい態度を取ったのは初めてだったが、このくらいの荒療治でなければ"浄化"は無理だと考えたからである。
賄い人を辞めさせた後の職場の雰囲気が、ガラリと一変したのは言うまでもない。
お店の再建の切り札となる、山陰の「松葉かに」の創作料理開発も急ピッチで進めた。
当時はまだ本格的かに料理店は全国どこにもなかった時代である。
茹でて食べるかにをいかに工夫して美味しい料理として食べてもらうか…。同僚との試行錯誤が日夜続いた。

文:社長 日置
2018/01/30

中部経済新聞連載 【マイウエイ ㉑】 2018/01/29掲載

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「金波楼」から望む日本海
(遠くに見えるのは「山陰の龍宮」)

新たな決意

東京タワー
花の神戸は深夜や早朝など四国からの船で着くお客様が非常に多い。
そのため勤務していた店は閉まることなく営業を続け、朝と夜の10時に交代する仕組みとなっていた。
自然と宵の時間にも余裕ができるので、ダンスや空手の道場にも通い、青春を謳歌しつつ体を鍛える事にも専念した。
「庖丁一本 サラシに巻いて・・・」の歌のように、東京での仕事にも進んで出向くことにした。
当時、国鉄の特急でも、大阪から9時間余りもかかったが、各地の街並みなどを観察するためにも、早朝の汽車に乗った。
途中にあるこの名古屋も、とても魅力的に見えた。
東京は人が多く美しい店も沢山あり、活気が感じられた。
瀬戸内海の魚も美味しかったが、東京湾は富栄養で、江戸前の魚のおいしさも感じた。
また、東京は名所や旧跡が多く、寺社・仏閣はじめ美しい庭園も多くあり、知識と感性を養うため、よく休日を生かして楽しんだものだ。
東京での板前修業中の思い出を一つ紹介したい。
当時出来たばかりの東京タワー(1958年12月竣工)に登った。
高さ150メートルの展望台から一望に見渡せる広大な関東平野や、東京湾の美しい青さと沢山の船舶の姿に思わず目を奪われてしまった。
そして、眼下に広がる数えきれない建物やビルディングを眺めているうちに、いつの間にか涙する自分を発見した。
「見渡す限りの全てのものはどれも誰かの所有物だ。中学を卒業してから8年が過ぎたが、未だに自分は何一つ持っていない」そんな情けない気持ちにとらわれての事だった。
「いつかは必ず目に見える大きな店を作るぞ。でなければ、生まれてきた意味はない」新たな決意とほとばしる熱意を抱き、思わずこぶしを握り締めていた。
東京タワーからの風景は自分を見つめなおし、奮い立たせてくれた。
その後、私は山陰・城崎の「松葉かに」の本場、日本海を臨む絶景・日和山海岸で腕を振るった。観光地での勉強も必要と考えてのことだ。
勤めたのは「金波楼」という名の知れた名門旅館が経営する海岸の店だった。

文:社長 日置
2018/01/29

中部経済新聞連載 【マイウエイ ⑳】 2018/01/27掲載

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亀の腹に成功祈願を刻む
(イラスト・筆者)

四日市での不思議な出来事

一匹の亀
話は少々前後する。
四日市で修業中の3年目のこと。
仕事は確かで人柄の良い河野板長が、名古屋の鶴舞公園南の天池通りで、「鶴寿司」という店名で独立することになった。
代わりに来てくれた板長はほどなくして男児に恵まれたが、「わが子に君の名前をもらい受けたい…」と言われ、実際に付けてくれたことがあった。
コンビナートの建築工事中の塩浜や四日市港あたりから、お寿司の出前注文もよくあった。
自転車に乗り、片手に10~13人前の寿司をぶら下げての配達だが、力仕事で鍛えた私の特技でもあった。
こんなこともあった。
店に沢山のツケを残した建築会社の上役が、早朝トラックに荷物を積んで朝逃げするらしい、という知らせを別の顧客から聞いた。
急きょ駆けつけてみると、荷物を積み終えてまさに出発直前の様子。
「追跡してきます」と店に伝え、トラックの荷物の間に身を潜めた。
車はほどなく出発、1号線を西に2時間ほど走った後、信号も何もないところで停車した。
運転手が川沿いの家に入っていくのを見て私も飛び降り、物陰から様子を見ていたが、どうやらここが逃亡先だという事がわかった。
後日集金に来ることを考え、周辺を確認したところ、川の北側には日本武尊(ヤマトタケルノミコト)を祀(まつ)った「野褒野(のぼの)神社」があった。
また、ここから南へ4キロほどの所には「王塚」や日本の歴史に関わる史跡がカ所あるなど、亀山市の東部と鈴鹿市の西部は非常に神聖な土地だと知った。
「神様が私をこの地に案内してくださった…」と、その時強く感じた覚えがある。
また、こんなこともあった。
入店してから無休で3年間の修行をやり通し、退店のあいさつをしている時、かすかに聞こえる異音に私だけが気づき、店裏のシャリ場で起こった火事を消すことができた。
最後のご奉公になったと、もう一度礼を述べ、店を出ようとした時、私に向かって一匹の亀が歩み寄ってきたのだ。
真昼間の道を、である。
その亀の腹の升目に「セイコウ タツオ」としたため、大成の願いを込めて、近くの諏訪神社の池に放ち、四日市を後にした。
この出来事については後日改めて述べたい。

文:社長 日置
2018/01/27

中部経済新聞連載 【マイウエイ ⑲】 2018/01/26掲載

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上寿司の握り手に抜擢
(イラスト・筆者)

「上寿司は日置さんに…」

神戸・三宮
郷里の両親にも多少の余裕ができてきたのか、豆腐屋を始める、との知らせが届いた。
よく聞いてみると、水に漬けた豆を石臼で挽(ひ)く昔ながらのやり方で、深夜の2時ごろには起きなければならないとのことだった。
それは大変だろうと考え、仕送りの残りの小遣いをかき集め中古ではあったが電動の豆挽機を買って送った。
それ以前にも、出回り始めた電気炊飯器やタイマー、健康器具などを送って親を助けたが、子どものころ、いつもお粥(かゆ)やぞうすいで育ててもらった私は、一銭の無駄金も使う気になれず、とにかく両親にお返しすることしか頭になかった。
休日も無駄にすることなく、自分でとっていた経済新聞をよく読み、時流の把握にも努めた。
勤めていた店は大きくて立地もよく、昔はよく繁盛していたらしいが、私がいたころはかなり静かで、長期の勤務者もおらず不安が先だった。
店主が食材を仕入れ主な仕込みも行うが、食材を際限なく安価なものに変え、調味料も質を落としたため、味は落ちお客様が逃げていく…。
危機に気づかずやがては死んでいくという「茹でガエル」のたとえを見る思いだった。
次は神戸の三宮の「二鶴寿司」に勤めた。そのお店には古参の番頭がいて、毎朝大阪魚市場まで仕入れに出かけ、瀬戸内海のいきの良い旨い魚を届けてくれた。
その魚の良さを引き出し生かすのは、板前の腕の見せ所でもある。それを心掛けている私の仕事を女将(おかみ)が早速見抜き、「板長、上寿司が通ったら日置さんに握らせて…」と指示を出してくれたのだ。
そこでの私は7人体制の下から4、5番目だったが、上寿司は私、並寿司は板長、という役割分担が取られた。
楽しくやりがいが感じられる店だった。
阪急三宮駅前という好立地も手伝い、店も繁盛していった。
当時は、姫路市の西南の網干(あぼし)方面から、生きた車海老や子持ちのシャコなども入る良い時代で、神戸港もまるで一幅の絵画のようだった。
中突堤(なかとってい)、メリケン波止場、白い船など、美しかった60年前の景色が懐かしく思い出されてならない。

文:社長 日置
2018/01/26

中部経済新聞連載 【マイウエイ ⑱】 2018/01/25掲載

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大阪の繁華街、宗右衛門町

旅へ出るのも板場の修行

自分磨き
5日目にやっとお呼びがかかった。
最初のすし屋は大阪一の繁華街に位置する新装オープンの店だったが、知名度や信用がない上に、店主が客席で好きなように振舞い、お客さまに不快な印象を与えていたため、ついには倒産の憂き目に会ってしまった。
調理場の力の及ばない部分とはいえ、店がつぶれるのを目の当たりにしたことは貴重な体験となった。
次のすし屋では、板長が店の主人から苦言を言われ腹を立ててしまい、調理人全員を引き連れて辞めてしまう「総上がり」を経験した。
当時の業界ではよく行われていたもので、板長の命令は絶対であり従わないわけにはいかなかった。
する側よりも、された側のダメージは相当大きくなる。
営業が立ち行かなくなるのだから、こういう事態を極力避けるよう、お互いの信頼、信用関係の構築が必要だと感じたものだ。
その後も「庖丁一本 さらしに巻いて 旅へ出るのも 板場の修業…」という藤島恒夫の歌を地で行くように、東京、神戸、広島…と、全国各地を回り修行を続けた。
とにかく、タバコを吸わずお酒も飲まず、健康には人一倍気をつけ、実家への仕送りを欠かさなかった。
また、その間は、常に食材を生かす努力と研究を重ねて美味しい料理を作り、お客さまに喜ばれながら、縁のあったお店の繁栄のために全身全霊で尽したのだった。
また、料理の技術取得と同時に自分磨きにも余念がなかった。
一つには、時間があればその土地の代表的な施設や美術館、博物館、展示場、あるいは古い有名な社寺や建造物などを片端から見て回った。
自身の視野と感性を高め、新しい知識を得るためであった。また、経済新聞を読むことにした。
これから到来する新しい時代への準備も必要だと感じたからだ。最新の知識と情報、考え方や方向性を知るうえで、私にとってはまたとない教科書だった。
ここから得た知識はお客さまとの会話でも大いに活かされ、そして驚かれた。
異色の調理人に見られていたと思う。

文:社長 日置
2018/01/25

中部経済新聞連載 【マイウエイ ⑰】 2018/01/24掲載

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修業を共にした樋口武市君と2人で
(右が私)

単身「食の本場」へ

無休の生活
四日市で板前見習いを始めて5日目には、思い切って丸坊主にして自分を奮い立たせた。
出前、舎利(しゃり)炊き、仕込みなど、朝10時から深夜1時ごろまで休憩も皆無だったが、製材会社での材木担ぎで鍛え上げた体力を頼りに、とにかく一心不乱に働いた。
休みは、毎年5月には家業の製茶の手伝いに帰郷するため、まとめて2週間もらうのと、元日の半日以外は翌年の5月まで1日も取らずに働いた。
元日の半日休みも、大晦日の夜中に、弟や妹に手土産を携えて帰郷し、とんぼ返りで昼に戻るという強行軍であった。
そんな働きぶりと、「飲む・打つ・買う」という遊びをせず、品行方正だったため、四日市調理師組合の第1回の表彰式には、先輩格会員とともに優秀調理師として表彰されたりもした。
しかも、給与のほとんどは仕送りや実家で購入した製茶機械の代金に充てていた。
3年間ほぼ無休でがんばったが、次なる高みを目指し四日市を後にした。1957(昭和32)年のことである。
当時四日市は、ようやく今の石油化学コンビナートの造成計画が持ち上がったころである。
しばらく津の料理店に勤めたが、いよいよ当初の希望をかなえるべく「食の本場」大阪に赴くことにした。
四日市での板前見習いは、津市の二鶴寿司の主人の紹介によるものだったが、今回は誰の紹介も頼らず単身乗り込む決意を固めた。
「入方(いれかた)」と呼ばれる調理師斡旋所に登録し、仕事が紹介されるまでそこで待つ、というシステムであった。
大阪ではまだ食堂やすし屋はそれほど多くなく、戦争から復員してきた経験者たちも集まり職人が過剰状態だった。
仕事が見つかるまで通天閣の近くの安宿に泊まり、50円のカレーやうどんでしのぎながら、街の飲食店のウインドー見学というお金を使わずできる独自の勉強を進めた。
周りを見れば、学ぶべきことはいくらでもある。
一時も無駄な時間は過ごしたくないという気持ちが強かった。

文:社長 日置
2018/01/24

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