四日市での修業時代
(右から2人目が私)
背水の陣
外食産業を自分の進む道と決め、「無」から「有」を生むための試練としていかなる苦労もいとわないとの決意を固めた。
まずは、商魂を学ぶために「食い道楽の本場」大阪での修業が必要と考え、製材会社の経営する食堂を退社することにした。
いったん郷里に戻って両親に話しをしたところ、やはり、道楽者になってしまわないかという心配が強かったようだ。
しかしながら、「徹頭徹尾頑張れば、必ず独立でき、一人前の経営者になることができるはず。
人の嫌うことを進んで真っ直ぐにやれば、道は自ずと開けてくると思う」と、真剣に意欲的に理解を求める私の言葉に、ついに父も首を縦に振ってくれた。
本格的な板前修業に出発したのは6月の末ごろ。家での製茶や田植えなどの農作業の手伝いが一段落した後のことである。
製材会社での給料のほとんどを家計のために入れていた私には、背広すら買う余裕はなかった。
スフ(人絹)のズボンにカッターシャツといういで立ちに、浴衣の寝巻きと下着類が入った一抱えの風呂敷包みが荷物の全てだった。
小遣いはわずかに1700円。大阪までなら行きの電車賃程度であった。
まさに背水の陣の覚悟だったが、不思議と希望に胸は膨らんでいた。
「必ず立派になってみんなを安心させるぞ」との思いを強くした。
以前から、食堂の板長に大阪の勤め先を頼んであったのだが、津駅で落ちあった私が聞いたのは、意外にも四日市での勤務の話だった。
一足違いで、大阪の店には別の人が行ってしまったとのこと。
急きょの予定変更だが、そこは調理師組合の支部長さんがやっている割烹と寿司のお店と聞き、安心してお世話になることを決めた。
いよいよ料理見習いとしての修行が始まった。店の名は「古登代」と言った。
四日市に今のようなコンビナート群が出来る以前の話である。
文:社長 日置
2018/01/23
現在の津市・立町商店街。かつての賑わいは、今は見られない
(イラスト・筆者)
外食との出会い
私は、妹「さかえ」の治療費として前借りした給料を1日も早く返すため、お盆過ぎの炎天下を、汗と涙にまみれながら無休で働き続けた。
ちなみに、私の父親は名を「栄三」(えいぞう)と言う。亡くなった妹の名は「さかえ」(栄)。
そして、後に縁あって、私が名古屋で独立し発展の基盤を作らせてもらった場所は栄(正しくは栄3丁目)である。因縁めいたつながりがあるように思えてならない。
1954(昭和29)年になると、戦後復興のための材木需要も勢いを失い、勤めていた会社も廃業し食堂に転業することになった。
大半はやめて転職せざるを得なかったが、私ともう1人だけ津の食堂で引き続き働いてほしい、との要請を受けた。私にとってはまさに「渡りに船」であった。
54年3月、津市・立町通りに開店した食堂の1階入り口で、私はドーナッツを揚げて販売する仕事を任された。
私にとって外食産業との最初の接点でもあった。
社交性や人当たりの柔らかさなどは、幼少のころからの家の手伝いやバイトを通し身についたものだが、それがこの仕事でも大いに発揮された。
物怖じせず、道行く人に声をかけてはチラシを配るなど、積極的にPRに努め、お客さまとの会話を楽しんだ。
やがて、そこで働く板前の仕事に興味・関心を持った。料理を作り出す喜び、給料の高さ、寝食付きなど生活に不自由しないし、しっかり蓄えれば独立するのも可能である。
当時の外食産業は水商売と言われ、世間ではまだまだ低く見られていた。
それに、板前も「飲む・打つ・買う」という三悪に染まってしまい、身を持ち崩す人が多いと言うイメージが強かった。
だからこそ、真面目に努力さえすれば、無学でコネを持たない自分のような一介の青年でも、頭角を現せるはずだと感じた。
「人の行く裏に道あり 花の山」ということわざがある。
自らの努力で切り開く勇気と実行力を持たなければ、後の成功をつかむことはできない。
そんな私自身の外食産業にかける基本的な想いが、この時を境に大きく膨らんでいくのである。
文:社長 日置
2018/01/22
製材所での経験を生かし、材木を競り落とす
地元の製材会社に就職
1951(昭和26)年3月、中学校を卒業した私は家庭の事情もあり地元の製材工場へ就職した。
当時はリフトやクレーンなどまだない時代で、材木はトビで引っ張り肩で担いで移動させる方式である。
体力には自信があったものの、さすがに肉体的な負担は大きく、家に帰ると何も手につかないということがしばしばあったのを覚えている。
ほどなくすると、「等級付け」の仕事も任されるようになった。本来なら、これは熟練工や番頭がするような仕事である。
製品にされた柱を品質に応じて幾つかのランクに分け、マークを押していくものだ。
正確な選別力が必要であり、その良し悪しが経営を決めるほど大事な作業でもある。
社長から直々に言われて引き受けたが、真面目さと直感力を買われたのだろう。
社長の期待に応えようと努力し、数日で選別の概要を会得した。
この製材所勤務の経験が、後の店造りの材木の目利きへとつながり、今ある店舗造作の下支えとして生きることになる。
この当時には本当に悲しい思い出もある。
私には「さかえ」という1歳年下の妹がいた。実に良く間に合う気立ての良い子だった。
大阪の叔母の家で洋服の仕立ての勉強をしていたのだが、お盆の帰郷で久しぶりに顔を合わせた。
その日も、一帳羅(いっちょうら)のまま、母親の草むしりの手伝いに精を出す姿が見られた。
ところが、16日に送り出してからわずか5日後に、重い病気にかかり入院したとの知らせが届いた。
治すには新しい注射、今で言う抗生物質が必要だったが、まだ開発されたばかりで値段は高く保険医療制度もない時代、家の蓄えなど期待できなかった。
とにかく治療費を工面するため、製材会社の社長さんのところに向かい給料の前借りを願い出た。
10カ月分の給料6万円を借りることができ、快方への期待が膨らんだが、その祈りもむなしく帰らぬ人となってしまった。
悲しい別れであった。
ただ、製材会社の社長さんには、本当によくしてもらったと感謝している。
文:社長 日置
2018/01/20
食材への感謝を込め毎年行われる「かに供養」
ごちそうさま
2カ月半にもわたる病気との闘いと静養の毎日は、それまでの自分とこれからの生き方を深く考える時間を私に与えてくれた。
「栄養状態を考えずに体を酷使しすぎたことや、小動物の命を顧みない無益な殺生を繰り返したことが今回の大病の原因となったに違いない」。
そう反省をし、これからは、健康や栄養をよく考えながら自分に厳しく他人には誠意を尽すこと、物事や仕事に対して真心を持って喜んで進んで取り組むことを心に誓った。
また無益な殺生は今後一切せず、命あるもの全てに対して、無駄にすることなく最大限に生かすことが、人間としての努めであり使命だとの思いも強くした。
小学6年生ながら、今回のことは「自分を強く大きくしてくれる試練」と捉えることができた。
「失敗も勉強」とただでは起きないタフな精神力が、既にこの頃から身についていたと思う。
やがて私が飲食の道に入る大きなきっかけになったのも、この時の体験によるところが大きい。
「食によってかけがえのない命を救われた。
それならば、その食を通して周りや社会に恩返しをしていきたい…」この思いは、今日まで常に私の原点となっている。
蛇足だか、社内では食事の時はきちんと手を合わせて「いただきます」や「ごちそうさま」を言うように指導している。
「いただきます」は私たちの生命をつないでくれる米や野菜、肉や魚に対してその命をいただきます、と言う意味であり、「ごちそうさま」はお客さまをもてなすために食材を求めて馬を走らせたという主の行為(馳走)への感謝、という意味であることを伝えるが、最近は知らない社員も多い。
特に食に携わる私たちにとっては、忘れてならない大切な言葉である。
ちなみに、毎年12月の繁忙期を前に、日頃、食材として使用しているかにを始め、魚介類への一年の感謝を込め「かに供養」というものを行っている。
社員が生かされている(生活できている)さまざまな命を意識し、それらをより生かして使わせてもらうという誓いの場ともなっている。
文:社長 日置
2018/01/19
奇跡をもたらした食のパワーに感謝
(イラスト・筆者)
奇跡の回復
「重い腹膜炎なのですぐに入院する必要がある」―。松阪の病院での診察結果だった。
しかし、入院費用を捻出できない父親は「家の都合もあり、薬だけもらって家で養生させたい」と答えるしかできなかった。
家庭での療養では全治する可能性はほとんどないとの医師の言葉に逡巡(しゅんじゅん)した父親は、私に「どうする?」と尋ねてきた。
私は、「大丈夫だよ。家で安静にして体に良いと言われているものを食べれば治るよ」と精一杯の返事をした。
自分のことで両親や周りに迷惑を掛けたくないという気持ちもあったが、それ以上に自然の産物の力で必ず治せるという確信があった。
それは、基礎体力に自信があることと、無益な殺生を反省し心を入れ替えれば、神様は必ず自分を助けて下さるのでは…、という思いがあったからだ。
私の言葉に父親も吹っ切れたのか、心配する医師に一礼し自宅に戻ることとなった。
家では徹底した「食餌療法」で療養した。
これだけは、と仏様にわび、かつて鑑別のお礼にもらったウサギや、開腹して命を助けた鶏がメスに産ませた有精卵、マムシやニンニク、うなぎや薬草など、母の心尽しの料理を感謝しつつ食べた。
また、体に良いと勧められるものは何でも口にし、できる限りを日光に体を浴して静養に努めた。
しばらくは腹痛や苦しさが続いたが、それでも我慢強く食餌療法と休養に徹しているうち、次第にお腹の張りが小さくなり、快方に向かっていった。
あれだけ苦しめられた悪夢からも開放され、元の元気な体と心を取り戻すことができたのだ。
今から考えれば奇跡的な回復といえる。
後日談だが、当時の日本ではペニシリンなどの抗生物質がまだ普及しておらず、入院をしても十分な治療が施せず、ほとんどの子どもや患者が命を落としたと言われている。
入院できなかったこと、食餌療法にかけるしかなかったことは、全ての命を助け人生を見つめなおすために神様が与えて下さった試練だと感謝し、この命を無駄にはできない、との想いが強まった。
文:社長 日置
2018/01/18
悪夢に悩まされ続ける日々…
(イラスト・筆者)
重い腹膜炎 ケガはよくしたが体はとにかく丈夫で、病気とは縁遠いと思われた私だが、小学6年生になると体調の優れない日が続くようになった。 体の重さ、腹の痛み、微熱…が治まらないのだ。お粥(かゆ)をすすりながら相変わらず山菜取りに農作業、米搗(つ)き、麦搗き、藁(わら)たたき、牛やうさぎの餌の草刈り、妹や弟の子守り…と忙しい毎日が過ぎ、田植えのころになると腹が少し張り出してきた。 こんな経験は今まで一度もなかったが、それでも夏休みには川遊びに行く友達を横目に、炎天下のアイスキャンデー売りを続けた。 そのうち自分が呪われているような恐ろしい夢を見るようになった。 自分が今まで殺生した生き物たちが私に迫ってくるのだ。 その時は面白半分にやっていたが、なぶり殺しにしたカエルやヘビにも命はある。 それを踏みにじってきた行為を彼らは責めているようだった。 体の容態は次第に悪化し、お腹の中に水がたまっているのか歩くとジャブジャブと音がするようになった。 寝ていても痛みに襲われ、加えて悪夢の耐えがたい苦悶の日が続き、さすがの私も大いに反省した。 神様に金輪際無益な殺生はしないと心に誓い、心から許しを請うた。 数日後、母に連れられ近くの病院を訪れたところ、医師からは重い腹膜炎であるとの診察を受けた。 村の医者ではとても治療はできないので、とにかく大きな病院へいってくれとのことだった。 症状がはかなり深刻だったのが私にもわかった。 さらにもう一つの心配は、入院費用のことだった。家の蓄えや当時は保険など全くなかったからだ。 それでも父親は、費用を捻出するため自家製の手あぶりの緑茶を一斗缶に五つほど用意し、私を連れ松阪にある親戚の茶問屋へ売りに出かけてくれた。 ところが、巷(ちまた)では製茶機による安価なお茶が出回り始め、手あぶりの高級茶はむしろ不人気を呈していた。 丹精を込めて作った緑茶を二束三文の値段で売るわけにもいかず落胆する父親…それでも、とにかく病院へ行こうということになった。 費用に不安を抱えたままの2人の足取りは重かった。
文:社長 日置
2018/01/17
商売の面白さを実感したアイスキャンデー売り
(イラスト・筆者)
親孝行
終戦翌年の1946(昭和21)年、大黒柱である病気がちの父親に代わり、実兄と2人で農作業に明け暮れた。
牛と唐すきを使って田を耕すのは2人の大切な仕事で、時には学校を休んで野良仕事をすることもあった。
12人という当時村一番の大家族が食べていくためには、大人子ども関係なく動けるものは皆働かなくてはならなかった。
7月になると伊勢奥津の駅前にアイスキャンデー屋が開業した。店頭に張られた「売り子募集」の張り紙を見て私は早速申し込んだ。
面白そうだし、夏は良く売れてもうかるはずだと踏んだからだ。
もちろん自分の小遣い稼ぎではなく、もうけは全て家に入れるつもりだった。少しでも役に立ちたいと思ったからだ。
保冷箱と旗と鈴は貸してくれるが、自転車は自前で用意しなければならなかったので、使い走りでためていたお小遣い50円をはたいて古自転車を購入した。
かなり手入れが必要だったが、しっかり磨きあげ油をさして、何とか夏の酷使に耐えられるよう整備し、夏休みになるのを待った。
アイスキャンデーは1本2円で仕入れて3円で売る。差額の1円が自分の儲けとなる仕組みだ。
初日は100本仕入れてスタートした。
他の人と同じように売っていては、売り上げは伸びないだろうと思い、先ずはどの地域が良く売れるのか一通り走ってみて確認することから始めた。
途中、呼び止められて初めて売れ、お金を手にした時はさすがにうれしさで小震いした。
残念ながら初日は60本程度しか売れなかったが、それでも差額の儲けである60円を母親に全て渡した。
その時の母親の喜んだ顔は今でも忘れられない。
その後も夏休み中は毎日キャンデーを売り続け、売り上げを全て渡した。働くとは「傍(はた)を楽にする」とも言われる。
周りを楽にすることが、働くことの喜びであり楽しさだと当たり前に考えていた私は、それだけで満足だったのだ。
商売のコツ、商いの基本が身についたのは言うまでもない。
文:社長 日置
2018/01/16
集落のウサギを鑑別
(イラスト・筆者)
好奇心と探究心(4)
追求心・探究心が高じて、子どもにしてはずいぶんとませたこともした。
戦時中あるいは戦後、ほとんどの家では食用として10匹程度のウサギを飼っていたが、よく子を産まないと漏らしている声を聞いていた私は、もっとたくさん子どもを産ませるための方法を研究してみようと思った。
まずはウサギの観察に着手した。
学校から帰宅すると、早速自宅で飼っているうさぎを1匹ずつつかみ出しては、その見分け方の特徴を丹念に探したところ、下腹部の違いによりオスとメスの判別がわかるようになった。
他の動物のように外見上での判断は難しく、小ウサギならなおさらのこと。
素人目には難しい診断も、実際に観察し確認することでそのわずかな違いを会得したのだ。
子どもが増えないというのは、そのグループがオスばかりやメスばかりの可能性がある…。
そう考えた私は、翌日から会得した特技を生かすため近隣の家々を鑑別に見て廻った。
案の定どの家でも性別の違いはわからないままに飼育しており、自分の判断が正しいことを確信した。
1匹ずつ取り出して下腹部を丹念に調べオスとメスを見分けては、「もっとオスの割合を増やさないとダメだよ」といった適切なアドバイスをする私を見て、大人たちはただただ感心するやら目を丸くするやら…。
みんなの役に立って喜ばれるのがうれしかった。
この評判は集落中に広まり、私の家にウサギを携えてわざわざ鑑定依頼に来るほどになった。
オスとメスのトレードや、婿取りの世話、種付け出張の橋渡しに始まり、理想的な繁殖のタイミングなども自らの観察から得た知識としてアドバイスすることができ、子ウサギの大量生産に大きな役割を担うことができた。
見てみよう、やってみよう、というという姿勢は自分も周りも豊かに、幸せにしてくれると子ども心に感じたものだ。
そして、やがてこの特技のおかけでもらったうさぎたちが、私の命を救う大きな一助になるとは…。
まさに「芸は身を助ける」である。
文:社長 日置
2018/01/15
不健康と不幸せの絶対方程式
(イラスト・筆者)
好奇心と探究心(3)
健康には人一倍、いや二倍、三倍の気を遣っている。
食の大切さもさることながら、体に悪いとわかっているものを、あえて手を出してしまう愚の行為は戒めなければならない。
この信念もやはり幼少時代に培われたものだ。
私が小学1年生のころのこと。
村の中に、はたから見て元気のある家とそうでない家があるのだが、その違いはどこから生まれるのか、ということに興味を持ち調査したことがあった。
目をつけたのはタバコである。
タバコを吸う家と吸わない家をグラフに表してみたところ、いずれもその父親がタバコを吸っている家庭は生活力が弱く、吸っていないところは生活力が上がっていたのだ。
まだタバコの健康被害など世間の誰も口にしていなかった時代であり、今考えれば先進的な知見だったと思う。
ちなみに1943(昭和18)年には戦争の影響でタバコの販売は中止された。
また、かつてバリバリと働いていた祖父が、あるころから坂を下るように元気を失い、さえない一老人になってしまった。
農作業をしていても、少し働いてはすぐに休み座り込んでキセルをくゆらしてばかりいた。
体も次第に弱くなり病気がちになっていった。
加齢と言う理由だけではないように感じた私は、祖父の知り合いから若かりしころの様子を色々と尋ねてみた。
一様に返ってきた答えは「おじいさんは若い頃は本当に働き者だった。
ただお酒やタバコをずいぶん嗜(たしな)んでいたな…」というもの。
お酒とタバコに原因があるのでは、そんな予感がした。
この経験値から私にとってタバコと深酒は、人生と家族を台無しにする忌むべきものとの思いが刷り込まれた。
タバコは元々南米在住のネイティブアメリカンが吸っていたものを、コロンブスが発見してヨーロッパに伝えたものである。
日本には信長の時代(1575年ころ)にフロイスが持ち込んだと言われているが、私から言わせれば悪しき慣習の始まりだ。
いつまでも健康で元気に活躍したいならば、悪いとわかっていることをしない勇気と強い意志を持たなければならないと強く思う。
文:社長 日置
2018/01/13
「緊急オペ」を行う
(イラスト・筆者)
好奇心と探究心(2)
幼少時代の好奇心、追求心、探究心の強さを物語るエピソードには、こんなものもある。
「なぜヘビはスズメの卵を食べないのか?」。
そう気づいた私は、早速自宅の瓦屋根にはしごをかけて登り、スズメの巣を探し出して卵を2個取ってきた。
火を起こし、十能(じゅうのう)と呼ばれる小型のスコップ状の火鉢などで使う道具に、卵を割って焼いてみたところ、見た目はウズラの玉子焼きと遜色なく匂いもすこぶる良い。
期待して口にした。ところが…一口食べたところ舌の上をしびれるような「エグさ」が走り思わず吐き出してしまった。
とても食べられる代物ではないことがわかったが、同時に、蛇などの外敵に卵が食べられないよう与えられた自然の力であることも実感した。
よほど珍しいことなのだろう、82歳のこの年になるまで、スズメの卵を食べたことがあるという人の話をいまだ聞いたことはない。
また、家で飼っていた鶏の外科手術を行ったこともあった。非常に塩辛い干した小イワシの頭に糠(ぬか)をまぶしたものを、たまたま祖母が餌として、鳩ほどの大きさの5羽の鶏に与えた。育ち盛りで食欲も旺盛。
見る見る平らげていく様子を傍目に少しその場を離れて戻ったところ、何と5羽とも倒れ4羽は既に絶命していた。強烈な塩分のせいだった。
「切開手術で小イワシの頭を取り出せば生き返るのでは…」そう考えた私は、すぐさま小刀を手に取り、虫の息の一羽の鶏の切開手術を施した。
水で胃の中を洗浄した後、針と絹糸で胃袋と皮の切り口を分けて縫い合わせ、赤チンで消毒し様子を見守っていたところ、なんとしばらくして息を吹き返したのだ。
十分もすると元気に歩き出したが、水を与えると切り口からボタボタと漏れ出すため、思案の末米の粉と糠を混ぜ合わせたものを食べさせてみた。
すると、やがて胃の内側から隙間が埋められたのか水漏れはなくなり、数日で完治してしまった。
ヒヨコの生命力もすごいが、突拍子もない自身のチャレンジ精神には我ながら驚いてしまう。
文:社長 日置
2018/01/12