田畑を耕しながら牛を観察した
(イラスト・筆者)
好奇心と探究心(1)
子どもの頃から、好奇心や探究心などが旺盛だった。
何気なく目に入るものでも「なぜだろう、どうしてだろう」という気持ちがふつふつとあふれてきた。
中学卒と言う肩書きではあるが、人並み以上の知恵を授かった(と思っている)のは、そのお陰だと確信している。
例えば「鳥や虫はどうして空を飛べるのか?」。
もちろん羽があるからそうなのだろうが、自分の体を浮かせるあのパワーの源は何だろうか? という具合だ。
また、小学3年生の頃から野良仕事を手伝うのが日課だった。よく牛と唐すきを使って田畑を耕していたが、その時の牛の様子を見て、「なぜ牛はこんなにおとなしく、しかも黙々と働き続けられるのだろうか?」。
そんな思いに駆られることもあった。
その原因を探るために徹底的に観察を続けた結果、たどり着いたのは「食べ物」であった。
鳥は木の実や穀物を食べ、虫は草花の蜜を吸いあれだけのエネルギーを生み出す。
そして、牛は草を食むことで驚くような体力、持久力と温厚な性格を有する。
よく考えれば、草を食む動物たちはほとんどが温厚でありおとなしい。
羊や山羊、うさぎなどにしても人に嚙み付くとか攻撃した、という話はまず聞かない。
さらに「麦をまく時期はなぜ秋なのか?」。
普通は植物が育ちやすい春先にまけばいいはずなのに、わざわざ寒い時期にする理由がわからない。
自分で確かめないと納得しないところもあったのだろう、それならばと実際に春に種を蒔いて様子を観察した。
すると芽が出て途端、すぐに鳥や虫たちによって食べ尽されてしまった。そこから、麦の滋養を知っている鳥や虫に食べられないように、との経験値からなされていたのだと合点した。
頭であれこれ考えてもらちが明かない時は、実際に行動して確かめればよい。その経験則は今でも私の信条である。
また、体と心は食べ物、特に植物によって作られるということを自然の事象から学ぶことで、食べ物への感謝の念とともに、体に良い食べ物を選択する意識が強く根付いていったと思う。
文:社長 日置
2018/01/11
空の要塞とも言われていたB29
(イラスト・筆者)
太平洋戦争
多感な小学生の頃に太平洋戦争を経験している。
1944(昭和19)年になった頃から、静かな美杉村の空にも戦雲が立ち込めるようになった。
本土爆撃が日増しに激化する中で、戦火を逃れてかなりの人たちが疎開して来て、村の人口は一気に増えていった。
小学3年生の私にとっては、村がにぎやかになってきたという感じはあったが、正直戦争は怖いという実感はまだ持てなかった。
それまでは、アメリカ軍のB29がかなりの上空を週に1、2度飛来する程度だったが、夏を過ぎると制空権も弱まり、かなり低い高度で爆音をとどろかせて通過していくようになった。
時にはP51やグラマン戦闘機も飛来し、空中戦を演じることもあった。
そのうち、近くの山に焼夷弾や爆弾が落ちたこともあり、危機感が高まった。
各農家で防空壕を掘るよう命じられたが、しばらくは子どもの遊び場として使われることが多かった。
晩秋になるといよいよB29の飛来は激しさを増していった。上空を通過するたびに「警戒警報」「空襲警報」の半鐘が静かな山間に鳴り響くのだが、身軽さを買われた私は、その半鐘を叩く役割を任されていた。
半鐘が吊り下げられている櫓(やぐら)は崖のふちに立っており、足を踏み外せば谷底へ一直線に落ちてしまう危険な場所だったが、不思議と怖さはなく、むしろ与えられた役割をしっかり果たし村の人たちを守ろうという気持ちが強かった。
ある日、日本機と思われる大型機が1機、火を噴きながら落ちていくのを目撃した。なんだか悔しい気持ちになったことを覚えている。
後年、山で発見されてわかったことだが、その大型機は元総理大臣、中曽根康弘氏の実弟が乗った軍用機だった。
実弟を含む12名の尊い魂は、美杉町からほど近い、母の古里の松坂市飯南町上仁柿の「高福寺」に眠っているという。
戦争は全てを奪い去る凶器である。
世界のどこかで未だ戦火が絶えない現実を憂いつつ、平和な日本、平和な世界の実現を強く望みたいものだ。
文:社長 日置
2018/01/10
私が少年期を過ごした美杉の実家
心優しい正義感
背は小さいほうだったが足腰の力は強かった
幼少から両親の手伝いに奔走し、それが自分の体を鍛えることにつながったからだ。
農作業の手伝いも、重要な一働き手となり率先して行った。
学校から家に戻ると牛に唐すきを付けて田を耕した。
米や麦搗(つ)きのため何時間も杵(きね)を足で踏み続けることもあった。
わらたたきやまき割りにも精を出した。山を駆け巡って山菜取りもした。
辛い、苦しい、嫌だ…そんな気持ちは微塵も起きなかった。とにかく自分の働きで周りの人が喜んでくれるのを見るのがうれしかった。
腕も足も自然と強くなり、小学3年生の頃にはけんか一番、相撲一番のガキ大将になっていた。それでいて心根は優しく、「悪しきを挫(くじ)き、弱きを助ける」正義漢でもあった。
無用なけんかはしなかったが、1級、2級上の子とけんかしても負けたことは一度もなく、相手の顔を叩くとか道具を使うという卑怯な手も一切使わなかった。
ところが、家ではおとなしく手伝いに精を出し兄弟けんかもしないので、母親からは「外弁慶」と呼ばれたりもした。
ただし、生粋の模範少年ではなく、年相応にいたずらもしたし、名うての「荒漢(あらかん)坊主」で聞こえた時もあった。
精がつくからとマムシを捕まえては皮をはいで、生で食べるという荒業もした。
友人にも食べさせたところ、その友人が熱を出して学校を休んだ時には、さすがに先生から大目玉を食らったこともあった。
また、手伝いをしている時の母親と過ごす時間は、私にとって貴重な体験と人生勉強の時間となった。
よくこんなことを言われた。
「人間はなあ、人に言われてやるより自分から感じ、考えて動く人間にならなくてはダメだよ。それを、打てば響く人間というんや」また、「一を聞いて万を知れ」の言葉も記憶に刻まれている。
気の回る人間になれとの示唆だ。
それは、後にサービス業に身を置く私への強く大きなメッセージとなった。
文:社長 日置
2018/01/09
実兄が経営する美杉の「日置製茶」
母親っ子
村の中でもかなり奥にあった日置家は、わずかに田が4反、畑が2反ほどしかなく、田も半分ほどは、農地を借りての小作農という状況であった。
田1反から穫れる米は2石半ほど。
昔は1石が大人1人の1年間の消費量と言われており、当時の日置家の家族の多さを考えれば、この程度の土地ではとても賄いきれるものではなかった。
そんな貧農の次男坊として生まれた私は、この苦しい状況を知ってか知らずか、親にほとんど迷惑をかけることなくすくすくと育ったようだ。
祖父はニコチン、アルコール中毒のためにろくに働けず、父親も山仕事の事故で片目を失明し、その後遺症で重労働はできない状態が続いた。
そのため家計は母親に頼るところが大きく、母親が製材所の雑役婦として外に仕事に出かける間、私は寝かされっぱなしの状態が続いた。
昼に母親が戻ってきた時には、おむつはぐしょぐしょの状態である。
ところが私は全くぐずることなく、寝返りも打たず、這い出すまでは動き回ることもなく、ただひたすらじっと待っていたという。
授乳のために戻ってきた母親の顔を見ると満面の笑みを浮かべるという、我慢強さとやさしさを兼ね備えた赤ん坊でもあった
そのためか、おねしょ癖はそのまま直らず小学3年4年まで続いたが、母親は決して叱ることなく逆に「この子は将来必ず成功者になる!」と温かく見守ってくれた。
そんな愛情に応えるように、母親に口ごたえ一つすることもなく、やがて懸命に母親の手助けをするようになっていく。
さらにもう一つ、赤ん坊の頃からの癖だと思うが、今でもいったん寝入ると身じろぐことなく、ずっと上を向いたまま朝まで寝ていられる。
額にタオルを置いて試したことがあったが、目覚めた時にはタオルはそのまま残っており微動だにしていなかった。
寝返りを打つこともなく、いつの間にか布団がはがれるということもないので、風邪をひくことも滅多にない。
育った環境のお陰なのか、自然と身についた私の特技とも言える
文:社長 日置
2018/01/08
昭和10年、私が生まれた年に開通したJR「名松線」
(写真は現在のワンマンカー)
生い立ち
私が生まれたのは三重県津市美杉町というところである。
かつては一志郡八幡村であったが、その後美杉村になり、2006年1月1日に旧・津市との合併により美杉町となった。
町とはなったものの、今でも見渡せる景色はさほど変わっておらず、杉木立の林立した山に囲まれた静かな山村風景が広がる。
台風や大雨があるといつも最初に止まるのが「JR名松線」であり、よくテレビのテロップで流れる。
名松線の名は「名張」であり松は「松阪」のことだが、戦況の事情もあったのか、私の郷里で終点となり、実際には松阪から「伊勢奥津」という駅を結ぶローカル線となっている。
地域の過疎化もあり維持管理費を賄いきれるほどの収入はなく、赤字路線となっているのは残念だ。
その終点駅である「伊勢奥津」から南西方向に徒歩で15分ほど歩くと、私の実家である「日置製茶」がある。
今は実兄が経営し実弟が手伝いをしているが、製造するお茶は当社のチェーン店の一部にも、お客さまへの提供用として納めてもらっている。
30年ほど前は名古屋から車で4時間以上かかったが、今は高速道路で久居まで行けるため、2時間弱の道のりとなった。
田舎に立派な舗装道路もできたが、政策の事業仕分けに遭遇し、昔の伊勢本街道の再現が断たれている。
また最近地元の古文書から、私の祖先は伊勢を地盤とした国司・北畠家の侍大将「日置大膳亮」であることがわかった。
幼少の頃より、祖父からはそれらしい話を聞いた覚えがあり、実家の裏にはかつて大膳が住んでいたと言われている屋敷跡も残っていた。
今はその面影もなく、わずかに名残を残す高石垣があるだけだ。その場所は区画整理でほとんどつぶされているが、見晴しのよい砦の形をしていたという記憶がある。
後に家康の家臣となった日置大膳との関わりや不思議な縁については後述させてもらうが、私を今日の成功へと導いてくれた大切なご先祖様の一人に違いなく、この跡地に記念碑的な何かを残せたら…と思っている。
文:社長 日置
2018/01/06
【日置達郎 ひおきたつお】
中学卒業後、製材所勤務を経て、板前の道に。四日市や大阪、東京などで腕を磨き、1971(昭和46)年名古屋かに道楽、1974(昭和49)年札幌かに本家を設立し社長に。
両社の合併により2002(平成14)年から存続会社、札幌かに本家社長。
82歳。三重県津市出身。
筆者近影
はじめに
食で救われ、食のご縁で知名を拝した。
今回、裸一貫から82歳までの人生回顧の機会をいただき心から喜んでいる。
三重県美杉村(現津市美杉町)に生まれ、幼少期から好奇心や探究心が旺盛な上、家事や野良仕事も進んで手伝う、自分で言うのもおかしいが、正義感の強い学級一の腕白少年だった。
小6の夏、家計を助けるためアイスキャンデーを売り歩いていた時に「腹膜炎」にかかったが、12人の大家族では入院はできなかった。
自然から得られる食材での「食餌療法」に望みをつないで闘病し、3カ月程で全快を果たした。
中学時代は牛での農耕、炭焼き、機械式麦こき機での作業などで、学校を休むこともしばしばあった。中学卒業後は近くの製材所に勤め、材木のことを学んだ。リフトもない時代、力仕事で心身を鍛えた。
18歳の春、食で救われた命を食でお返しすべく食の道を志し、「人の寝ている間に学び、遊んでいる間に働く」ことを決意した。家のことばかりさせて背広の一つも買ってやれずに…と泣き崩れる母と、手を離さない妹弟をなだめ、猫ほどの着替えの袋を一つ小脇に抱えての旅立ちだった。
3年間無休で通した四日市の店から始まり、東は東京、西は広島、神戸、松葉かにの本場・山陰の城崎と、商いを学びつつ板前修業を続けた。城崎「金波楼」の大阪支店勤務時代は、本格的なかに料理の創作により、不振だった小料理店の売り上げを、わずか3カ月間で10倍に伸ばしたこともあった。
また、大阪・道頓堀の最高立地を探し当て、今に続く「動くかに看板」も考案した。
修行中も親や実家を忘れず仕送りを続け、無学を補うため夜学で学び、建築設計の知識を得、さらに行商を通じて経営のあり方も体得した。
そして名古屋で独立。71年(昭和46)年に現在の札幌かに本家を設立して今に至っている。札幌かに本家の店舗は、ほとんどが自社物件で、各地のケヤキ、赤松、スギなどを私自身で購入・製材し、飛騨の匠の技で組み上げている。重厚で豪華な店の雰囲気が特徴だ。
現在、全国に14店舗を展開しているが、ここまで拡大できたのも社員と人や土地の縁に恵まれたお陰だと感謝している。
文:社長 日置
2018/01/05